Vol.9 「アサーティブ・トレーナー養成講座(2)」
生来、感情抑圧傾向のある私は自分を取り巻く世界との接触に対して、漠然とした不安感を抱いていた。心の中に存在する不安は常に行動に影を落とし、外の世界へのチャレンジ意欲を遠ざけていた。
そのような無力感に支配されたまま大人になり、やがて行き詰まった私は神経症的症状に悩まされ、生き方の変更を余儀なくされた。セラピーを経て後得られた気付きは、必要とされるのは外の世界との関り、オープンな心で世界を受け入れるという事であった。私は心の赴くまま、あきれるほど様々な事柄にチャレンジするようになった。
「コミュニケーション」はとりわけ関心のある課題であった。アサーティブ ヒューマンセンターで学ぶ前年、大学のコミュニケーション学科で『ディベートとアサーション』の科目を履修した。講義には―気持ちと思考を表現する―という題目が付いていた。そこでは与えられた論題を検証し、自分の置かれた立場に則して論理を展開、多少強引にでも相手を論破するというディベートの愉しみを知る事となった。肯定か否定か、あるいは勝つか負けるか。しかしながら一方で私は、コミュニケーションにおけるもう一つの側面である「感情の交流」という部分を置き去りにしていた。
アサーティブ ヒューマンセンターでは、その事に気付かされた。過去において幾つかのセミナーで学んだ事は、結局のところコミュニケーションのテクニックであり、それらは全て外側からの視点での姿を捉えた物である。表現すべき気持ち、感覚。そういった物を抑圧して過ごしてきたように思う私は、ある意味それらの物に対するリアルな手応えに乏しい。あたかも二重三重に取り巻く壁が感情という物をブロックしているようだ。「どう感じているか、ではなくどう感じるべきか」馬鹿げているようだが、私の頭はそのように働く。同席した参加者の女性が言った。「あなたは感覚という物が外側からやって来ると考えているのでしょう、感覚は自分の内側から湧いて来るものなのよ。」彼女の言葉によって自分の心の有り様が理解できた。別の機会にまた、彼女は言った。「あなたは怒りの感情を持つ事を悪い事だと考えているようね。」まったく、その通りだった。
講義の初日に先生が仰られた事。「アサーティブであるという事は、精神的自立を意味する。ネガティブな感情も含めてあるがままの気持ちを受け入れ、相手に理解してもらうべく努力する」―自分を受け入れ、同時に相手も尊重する、他者との葛藤を否定ではなく肯定的な意味合いで捉える―アサ―ティブ・トレーニングにおいて学んだ事は、受け入れ難い感情や感覚に対する不確実感を、ビビッドな手応えのある物へと変えていくに違いない。
R.K (神奈川 2006年認定トレーナー)